アンセルムス 『心理について』

高嶋です。

 

言い訳させて欲しい。サボったわけじゃない。今日の基本情報の勉強サボったわけじゃない。

たまには休んでもいいよね…?

というわけで積んでたアンセルムスを読んでたからメモ的なやつです。ちなみに僕はスコラ哲学好きじゃない上。以下である調

 

「真理について」とはどのような事が書かれているのか?13章からなる教師と生徒との対話の形式で進められているものである。大まかに分けると三つの内容からできている。一つ目は真理とは何か?二つ普通、どのような物に語られるか?三つ目は正義について、といった具合になっている。一章から11章までは先ほど述べた真理とはなにか?という問題とどのようの物に語られるか?と言うことについて語られる。要約してしまえば真理の定義についてアンセルムスが語っている部分である。12章からは三つ目の正義についての考察である。正義の定義についての対話編である。

 各章の要点だけ、といっても今回は真理について述べられている、一章から十一章までまとめていきたいと思う。

 第一章では、真なるものは,真理によって真なるものである。すると,真理のあるところではどこでも,我々はそれを神であると言うべきではなかろうか。何故なら,神は真理なのだからである。と生徒が言う。最高の真理というのは始まりも終わりも持たないということを問題にして教師真理の定義を明らかにすることを求める。
 第二章では,命題の真理について考察される。我々は 命題について何よりも,真なる命題,偽なる命題と言う。では命題が真で あると言われるのはどのような場合であるか。それは命題が,ものがあるように言表する場合であると考えられる。つまり「あるものをある,ないものをない」と言表する時,その命題は真なる命題であると考えられる。
 そこでアンセルムスは命題にとって真理とは正しさと結論づけた。
 第三章では意見の真理が正しさである事を主張した。真なる思考は正しさであるということがここでも証明された。
 第四章では意志の真理について考察された。悪霊は真理の内に「留まらなかった」という聖書の言葉から,ここで語られている真理は意志に関するものであり,従って意志の内に真理が存在することだといった。次に真理の内に留まるとはく意志すべきものを意志することであり,そのように意志する意志は罪を犯し,真理を放棄することは なく,従って真なる意志であることが同意された。つまりは真なる意志は正しい意志と言うことになりここでも真理は正しさであることが主張される。

 第五章では行為の真理についての考察である。『聖書』の「悪しく行う者は光を憎む」という言葉,また「真理を行う者は光へと至る」という言葉が引用され、アンセルムスはこの2つの言葉の解釈し、そして「真理を行うこと」とは,「為すべきことを為すこと」であることを主張し,また「為すべきことを為すこと」とは正しさを行うことであるから,ここでも真理を行うことは正しさであり,結果として真理と正しさとは同一であることが結論されている。
 第六章では感覚の真理について考察されている。我々は感覚が真であるとか偽であるとか言い,感覚の内に真理や虚偽を認めている。だがアンセルムスによれば,本来の意味で真理や虚偽が存在 するのは内的感覚の内においてであり,外的感覚の内ではない。外的感覚は自然本性的な行為であり,その意味では常に真なる行為と考えられよう。そこには本来の虚偽はないのである。我々が感覚の真理,虚偽と呼ぶものは,この必然的な過程においてではなく,我々の判断を含むような過程においてである。と述べている。

 第七章ではものの本質の真理について語られる。ものはその存在を神から得ている。ものは「最高の真理」において存在するのであり,存在する限りで最高の真理から,その存在を受けている。それ故そこにあるのと別のものとして存在することは不可能なのである。その意味で全てのものは真に存在している。そして,その真理は「存在する全てのものの本質の内に」存在する。そこには虚偽は存在しない。何故なら,虚偽に存在するとは存在しないことだからである。 そうして,このような最高の真理においてあるものは,ものが「あるべきものとしてあること」に他ならない。つまりここでも真なるものとは正しいものであるということが考察される。
 第九章では、理性的行為について考察されている。人がなにか行為をするとき、それを「すべき」と判断しているのだから、自分のすることが「すべき」と判断された場合にはその行為は真であるとされる。
 第十章では最高の真理について考察される。
 そのあと第十一章では真理を定義している。一章から十章まで、真なる物は正しい。それが真理の正しさである。ということが考察された。そして最終的に真理とは精神でとらえられる正しさであると結論づけ、定義された。


感想(まだ続きあるけど)
、命題や意見、意志、行為などが、「すべき」と判断されてするならそれが真ということであるとアンセルムスは述べているけど、それは所詮すべきと判断しているのは自分自身なだけであり、他人から見たらそれは真とは言えない可能性もあるのではないのかと思った。カントのアプリオリのシステムなら、動物や人によって先験的要素などは違うわけだし、「すべき」と判断される事柄が人によって違うじゃん?人によって違う真理など真の意味の真理じゃないかな?

 

 

残りは書くかは未定だけど 書く機会あればという事で。また明日。